今日はソビボル強制収容所への行き方について調べようと思います。
先に情報ですが残念ながら2017年より改装工事の為閉館中です。
更に現在コロナの影響でマイダネク強制収容所、ベウジェツ強制収容所も2020/3/12より
閉鎖となっています。
このページをコロナが終息したあとにご覧になっていたら公式HPにて
改装が終わっているかご確認ください
We kindly inform that due to the commencement of construction work on the grounds of the memorial site in Sobibór, the Museum of the Former Death Camp will be closed from March 1, 2017, until further notice. For security reasons, the whole memorial site will be closed to the visitors. Apart from that the Museum will not provide any visitor services. However, it is possible to contact the staff of the State Museum at Majdanek branch in Sobibór via phone or email: (+48) 82 572 60 30, info@sobibor-memorial.eu
きっと私のブログを見に来てくださる方はポーランドに興味がある方だと思うので
調べたことをここに全部残しておこうと思います。
今後参考になれば幸いです。
まずこの場所の名前からですが正しい発音は「Sobibórソビブル」です。
Sobibór(óの発音はウです)と正しくは書きますが、このóが英語のアルファベットだとoとされてしまい、
ソビボルで日本にも通ってしまっているようです。
(元大統領ワレサさんの名前wałęsaヴァウェンサがwalesaワレサとされてしまっているのと同じですね)
正しいポーランド語ではソビブルですので、覚えておいてください。
「ポーランド名称ではóがついていないよ?」と思った方もいるかもしれません。
Obóz zagłady w Sobiborze(オブス ザグワディ ヴ ソビボジェ)ソビブルの絶滅収容所という単語があります。“ソビブルの=w Sobiborze”となった場合、
sobibórソビブルという単語すらもう無いですね。これはポーランド語の文法でしょうがないのです。
名詞も活用された時に変わってしまいSobibórソビブルが Sobiborzeソビボジェになるのです。
Kraków(クラクフ)がw Krakowieやz Krakowaと活用でóがoになるのと同じです。
ポーランド語は名詞も活用されてそれぞれの文法で名前まで変えなければならないので難しいですね。
流石アルファベット圏の人から見ても世界一難しい言語だと言われているだけあります…
2001年公開の映画でクロード・ランズマン監督の
「ソビブル、1943年10月14日午後4時 」というものがあります。(公式サイトはこちらからどうぞ)
フランス制作の映画なのですが、こちらは日本語タイトルでもソビブルですね。
1985年から3部作でホロコーストの記憶としてつくられた映画「SHOAH」(1985)に続く2つ目の作品です。
「不正義の果てLe dernier des injustes」 (2013)に続きます。
興味のある方は是非調べてみてください
こちらでは、ここからは正しい発音のソビブルで呼んでいきます。
ポーランドに来てからソビボルと言っても通じないですし、
通じない現地語覚えていてもあまり意味がないですからね
現地語に慣れておくと旅行中もとっさの時に理解が早いのでおすすめです。
まず、そもそもソビブル強制収容所について知らないので
公式HPを見て歴史を意訳します。
(英語が分かる方は公式HP のこちらをどうぞ)
<収容所の歴史>
ソビブル強制収容所は、1942年4月から5月の変わり目から始まりました。
(今から78年前の今頃始まったんだなと同じ季節の中でより近い心境で書いています)
ユダヤ人の絶滅計画とスロバキアからルブリン地区への数千人のユダヤ人の強制送還のためベウジェツ強制収容所に次ぐ「Aktion Reinhardt※¹」中でユダヤ人絶滅施設として2番目になりました。
収容所はソビブルの町の郊外に作られ、森の中に隠されていました。
またLublinルブリン-Chełmヘウム-Włodawaヴウォダヴァ鉄道線のすぐ横に位置していたため、移送は容易でした。
敷地は当初3つに分かれていました。
SS(ナチス親衛隊)用・ Trawnikiトラヴニキ収容所で訓練されたSS-Wachmannschaften※²用
そして収容所で働かされたユダヤ人用の3ヶ所です。
ユダヤ人から略奪した資産用倉庫もありました。
複合施設から隔離されていた第三の棟には、ベウジェツ収容所同様の施設でエンジンからの排気ガスで人々を殺害するためのガス室がありました。
収容所では、3人の指揮官と51人のドイツ人とオーストリア人、120〜150人の警備員(元ソビエトの捕虜)が務めていました。
最初の輸送は1942年3月末~4月初旬にソビボルに到着しました。
絶滅への行動は1942年5月に始まり、6月末まで続きました。
ルブリン地区のユダヤ人はその時に収容所に連れて行かれました。
同時に、オーストリア、ドイツ、チェコスロバキアからの外国人ユダヤ人の輸送もそこに向けられました。
最初のガス室はベウジェツで使われている者同様にコンクリートの基礎を持つ木造の建物で3つの部屋がありました。
後ろには排気ガスを発生させるエンジンが置かれた別の建物があり、部屋と繋がれていました。
1942年6月から9月にかけて、ソビブルのガス室は6部屋のレンガ造りに再建されました。
元SS役員によれば、2つのエンジンが部屋に繋がれていました。ガス処理手順は約20〜30分続きました。
死亡する前に、ガス室に通じる道路の近くにある特別な兵舎で女性の髪を刈りました。
ここはSS役員から「Himmelfahrtstrasse」[Heavenly Road]と呼ばれていました。
選ばれたユダヤ人の囚人(男性と女性600-700人)は収容所で働かされていました。
彼らは死者を葬り、犠牲者の財産を仕分けするか、SSスタッフと警備員を待っていました。
その中でも定期的に選択が行われ、殺されそして新人が入れ替わり働いていました。
1942年の夏は、ルブリン-ヘウム鉄道の改修工事のため、収容所に到着した輸送機はわずかでした。
多くの人が貨車に乗って運ばれ、他の人は近くの町から徒歩ながらも急いで動くよう指示されました。
鉄道輸送は9月に再び始まりました。その後、ポーランドのユダヤ人とともに、ルブリン地区の一時的なゲットーに置かれていたオーストリア、チェコ、ドイツ、スロバキアのユダヤ人が、ソビブルに連れて行かれました。
1943年の初めには、ベウジェツ収容所は清算によりガリシア地区とクラクフ地区からの輸送がソビブルに到着しました。その時、ルブリン地区のいくつかの場所からの最後のユダヤ人も強制送還されました。
3月から7月末までの間に、オランダから34,000人以上のユダヤ人が乗った19の輸送船がソビブルに到着しました。
3月には、フランスからの4つの輸送機関がそこに向けられました。
1943年の初秋、ビリニュスとリダ(ベラルーシ)からの国外追放者がのる最後の列車がソビブルに向かいました。
死体は第三号棟の集団墓地に置かれました。
1942年の秋の終わりには、死体は線路から作られた特別な焼却施設で焼かれました。
ソビブル強制収容所では約17万人のユダヤ人が殺されました。
ポーランドのユダヤ人が半分以上を占め、中にはルーマニア人もわずかにいました。
他はドイツ帝国によって占領された様々なヨーロッパ諸国の市民でした。
西ヨーロッパからの犠牲者の名前は輸送リストに書き留められましたが、
ソビボルに強制送還されたポーランド人とベラルーシのユダヤ人の名前は書かれることはありませんでした。
1943年7月、ハインリッヒヒムラーはソビブル※“絶滅”収容所を“捕虜”収容所に変えることを決定しました。
(※death campからconcentraton campへ )
ソビブルからの何人かの囚人が第四号棟の建設に任命されました。
1943年の夏に、囚人が収容所清算するための反乱軍を組織し始めました。
ドイツ人がミンスクからのユダヤ人捕虜のグループを選んだとき、反乱への準備は勢いを増しました。
彼らの軍事経験は武装反乱の成功を確信する要因となりました。
ソビボルでの反乱運動は、Leon-Lejb Feldhendlerレオン=レイブフェルデンドラーを代表とするいわゆる「古い囚人」主にポーランドのユダヤ人とソビエト捕虜のグループを率いるAleksander Peczerskyアレクサンダーペチェルスキーが主導しました。
1943年10月14日、武装した反乱が収容所で発生しました。
その結果、一部のSS職員が殺害され、囚人が大量に脱出しました。
反乱には第三号棟は含まれていませんでした。 46人が生き延びました。
反乱の後、ドイツ人はキャンプを清算することを決めました。
兵舎とガス室は、トレブリンカの死の収容所からユダヤ人の囚人によって取り壊されました。
彼らがすべての建物を解体した時、彼らは収容所の敷地内で撃たれ殺されてしまいました。
※¹Aktion Reinhardt=ラインハルト作戦・・・ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に執行したユダヤ人大量虐殺作戦。ポーランドなど東ヨーロッパのゲットーを解体し、そこで暮らすユダヤ人を三大絶滅収容所へ移送して殺害する、ホロコーストの一環である絶滅計画。
(https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Reinhardより)
※²SS-Wachmannschaften=トラヴニキの男たち・・・1941年6月のバルバロッサ作戦中に国境地域で捕獲されたソビエト赤軍の兵士のためにナチスドイツによって捕虜収容所から募集された人達。占領地域のポーランド語、ロシア語、ウクライナ語、およびその他の言語を話す能力が評価されていた。徴集された民間人と元ソビエト捕虜には、アルメニア人、アゼルバイジャン人、ベラルーシ人、エストニア人、グルジア人、ラトビア人、リトアニア人、ロシア人、タタール人、ウクライナ人が含まれていた。ラインハルト作戦で大きな役割を果たし、絶滅収容所にも仕え、とりわけワルシャワ蜂起での絶滅戦に重要な役割を果たした。
(https://en.wikipedia.org/wiki/Trawniki_menより)
概要はwikipediaと公式HPより意訳しました。
公式HPには英語版もありますのでそちらも併せてご覧ください。
ソビブル強制収容所の最後は収容所も囚人に破壊させ、そしてその使った囚人もその場で殺して清算というものでした。
清算という言葉が正しい日本語か分からないのですが、他が分からないのでお許し下さい。
↓wikipediaポーランド語版だと写真も多く載っているのでそちらもご参照ください。
Obóz zagłady w Sobiborze
さて、では行き方について考えてみましょう。
ソビブル強制収容所はSobibórソビブルという地名の場所にあり、
ポーランドに東の端それはウクライナとベラルーシ国境近くにあります。
ワルシャワから行くとおよそ270㎞。
車だと高速を使って現在の状況(多分コロナで空いている状態)で3時間半ほど。
ソビボルから一番近い都市らしい都市はLublinルブリンです。
ルブリンにはマイダネク強制収容所があります。
******************************************************************************************
★マイダネク強制収容所は真冬と春に行った事があります。下記ご参照ください。
・春のマイダネク収容所(2019年4月訪問)
・ルブリン Lublin-マイダネク強制収容所(2015年1月)
******************************************************************************************
ルブリンからだと約100㎞なので近いですね。
近いですが、ただとにかく森に向かうので行きやすいかと聞かれたらはいとは言えません。
地図を見ているとソビブル強制収容所のすぐ近くに電車の駅があります。
「なんだ目の前に駅があるじゃないか!じゃあ電車で楽に行けるな!♪」
なんて思ってしまいますね。
そんな早合点してはいけません。
まず駅を見てみましょう。
つづく↓2へ