ウムシュラークプラッツはドイツ語ですが、
ポーランドでも名前はこのままで呼ばれています。
発音はもしかしたらポーランド語読みして「ウムシュラグプラツ」と
言った方がこちらでは通じやすいかもしれません。
Umschlagplatzへの行き方ですが
この記事は<ユダヤ歴史巡り>ワルシャワ市街地に残るユダヤ人居住区ゲットー境界跡
と同じ日に移動をしているので少し歩いて「RONDO ONZ」トラム停から移動します。
RONDO ONZ04から 17番または33番のトラムに乗って向かいます。
降車駅Stawki駅までは約8分です。
途中「HARA MIROWSKAハラ ミロフスカ」を通過。ここも建物が素敵な所です。
ノジクシナゴーグはここからも歩いていけます。
「Stawki」到着。ここはトラム停が狭いのでお気をつけて!
信号を右に渡り、道をさらに反対側へ渡ってまっすぐ歩きます。
夏場は特にこの自転車用通路は飛ばしますから
歩くときにはここを歩かないように注意!
5分ほど歩くと見えてきます。
このシンプルな四角い建物がウムシュラークプラッツです。
1988年に記念碑が作られました。
建築家のハンナ・ツマーレンベルク(Hanna Szmalenberg)と
彫刻家のウラディスラフ・クラメルス(Wladyslaw Klamerus)によって設計されたものです。
1942年7月22日~1942年9月12日、
ここからトレブリンカにある収容所までナチスによって
ワルシャワのユダヤ人をほぼ毎日約7,000人が移送されました。
移送といっても悠々に座れるわけではもちろんなく、ぎゅうぎゅう詰めだったそうです。
総数は26万5,000人と言われ、トレブリンカ収容所のガス室で殺害されました。
画像:wikipediaより
トレブリンカへ運ばれるユダヤ人の当時の様子
“Ziemio, nie kryj mojej krwi, iżby mój krzyk nie ustawał”
「地よ、どうか私の血を隠さないでおくれ、私の叫びが止まらないように」
Władysław Bartoszewski大臣、かつて囚人番号4427と呼ばれた彼の言葉(意訳)です。
多くの血が流れたナチスによる大量虐殺は記憶は薄れても事実は消えません。
繰り返すことのないようこうした記念碑も大事に守って
重要さを語り継がれて欲しいと思います。
中はからっぽで特に何があるわけでもないのですが中に入ると
一人だったせいもあったのか、あまり長くいたくないような、恐怖を感じました。
足元を見てみると色が違うところがあります。
おそらくここがもともと塀があった場所なのでしょう。
この色の違うレンガがより当時をイメージしやすくなっています。
収容所もアウシュビッツへは行ったことがないのですが
ルブリンにあるマイダネク収容所へ行ってからは
もうどこも行きたくないと思っています。
往路では気づかなかったのですが、ここにもワルシャワ蜂起に関する記念碑が
ありました。こうしたひとつひとつもワルシャワの記憶が消えないように、
現代の若い人々にもこういう事があったという事とあることでそれだけ重要だということが
伝えられていていい文化だと思います。
現に私はこうして見つけるたびにワルシャワ蜂起を思い出し考えるので
少なからず影響はあると思います。
という事で、ウムシュラークプラッツへの行き方でした。
以下にも地図を残しておきますので分かりやすいものがあれば光栄です。
ポーランド・ユダヤ人博物館まで歩いていけます。
ウムシュラークプラッツへは中央駅のトラム乗り場からも勿論行くことが出来ます。
最寄り駅は今回は「Stawki」から行きましたが、ウムシュラークプラッツからもう少し先の
「Dzikaジカ」というトラム停(35番トラム)または、同名で157番バスが
近くまで行きますので行きやすいもので行ってみてください。
↓動く地図
参考ウェブサイト:TOKFM.PL
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この日1日で3か所まわりました。
他の記事も是非参考にしてください 🙂
★<ユダヤ歴史巡り>ワルシャワ市街地に残るユダヤ人居住区ゲットー境界跡
↓
★<ユダヤ歴史巡り>ウムシュラークプラッツへの行き方
↓
<ユダヤ歴史巡り>ハラミロフスカからノジクシナゴーグへの行き方
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ワルシャワで歴史巡りを考えている方は歴史タグをつけた記事が
いくつかありますので参考になさってください😉
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