寒いからなのか、まだ1/2だからなのか、観光客は私たち以外に2カップル、
1家族、1家族(おそらくイスラエルから)のみでした。騒がしくなくていいのですが、
あまりにも何も無いので「ここは入っていいのかな?」と少し不安になりながらも見学開始。
開いているところは全部入ってOKです。鍵がかかっていたらNGです。
最初に入ったサービスセンターでも入る場所は教えてくれるのですが、
開いている兵舎を見学していきました。
まず入ってすぐの兵舎。
こうしてポーランド語・英語・ヘブライ語の3ヶ国語での説明が各所に展示してあります。
この兵舎はまずここにつれてこられた収容者の最初の建物のようです。
入って右手、ここでまず受付のようなことをしたようです。
次に服を脱がせるため?理由が分からないのですがシャワーを浴びさせられたところ。
お風呂場のようなものもありました。
窓から外を眺めるとこんな景色。外は何もなく、
また敷地が広いため逃げるにもすぐ見つかってしまいます。
兵舎は思ったよりも広く、長屋のようになっていていろんな部屋に分かれていました。
冬場は建物内は暖められていたという説明書きを見て、
少し安心しました。
最初の建物ですでにガス室が。
さすがにここだけは扉が木製ではありませんでした。
毒ガスにはチクロンB(ツィクロンB)というドイツの青酸化合物系の殺虫剤が使われました。
そのせいで、壁にはまだ色が残っているのです。
-現在はこの「ナチス・ドイツによるホロコーストで、強制収容所のガス室で毒ガスとして用いられた」ということから農薬としては用いられておらず、その他の使用(シラミ除去などにも効く)に対してもユダヤ人団体からの抗議で商用に至っていない。-wikipediaより一部引用
こんなに鮮やかな青がしっかり残っているのを見ると、決して作り話と思っているわけではありませんが、
「本当にここで起こった出来事なんだ」と実感しました。
兵舎は続きます。どれも木製ですが綺麗に残っているように見えます。
どれも本物です。本当にここは収容所だったのです。
歩きながら途中で頭痛がしてきた私。
どうした私、寒いからなのか?この先行けるのか、
いや行かないわけには行かない、
この頭痛は亡くなった方の悲鳴なのか、
と思いながらてくてくと歩いていきました。
右側にもいくつか入れる兵舎があり入ったのですが、
あまりにも寒く手が悴んでしまって写真が撮れませんでした。
入った兵舎の一部には分かりやすい年表がありました。
イスラエルから(だと思われる)家族グループはじっくり指を指しながら読んでいました。
私はいまいちユダヤ人が迫害される理由が分からないのですが、
アウシュビッツにもイスラエルからの訪問者は多いと聞くのでここにも来たのかなと深く考えずにそのまま解釈。
エキシビジョンで展示物が沢山ある別の建物がありました。(ここも入場無料)
毒ガスに使われたチクロンB
古い缶が生々しい
生き延びた人?だと思うのですが
当時思ったことが書いてありました。
(英語またはポーランド語)
ヴィトールド コウォドコさん(男性)、別名ズミグルドさんが
エリジュビエタ クシジェフスカさん(女性)に非難輸送について書いたシークレットレター。
見つからないように書いたんだな、伝えたかったんだなと考えさせられて悲しい気持ちになりました。
当時使われていたもの
没収されたもの。
このニベアはきっと女性が持っていたんだろうな、と想像させられました。
ニベアは老舗かもしれませんが、ニベアは今でも使われています。
そんな遠くない過去だったということも気づかされます、
館内はハイテクで、薄いガラスのスクリーンに映し出されているだけかと思いきや、
タッチパネルになっているものもありました。
また生き延びた方々の当時の様子を語る動画もありました。
これはHPからも見ることが出来ます。(館内とは違う人々のものです)
こちらから是非ご覧ください。(英語・ポーランド語のみ)
館内で見たものの一人に、ある女性が語っていました。
「当時私はまだ幼くて、何が起こったかわからなかったわ。
母と一緒にいて、母が先に服を脱がされたの。
私は本当にびっくりしたわ。その時初めて母の裸を見たのよ!」
おばあちゃんが語っていたこの言葉は、
当時は例え子供でも裸を見せることはどうやらなかったそうで、
子供ながらにとても恥を感じたこと、どうしてそんな状況になっているか
パニックになって分からなかったことがとても伝わってきました。
また一人のおじいさんがポツリポツリと語っていたのには、
「マイダネクは・・・私たちは解放されたのかもしれない。でも実際は違うんだ。
(心臓に手を当てて)ここにずっと生きている。ずっといるんだ。
マイダネクでの1分は今の1年ぐらいに感じたんだ。」
一生癒えない心の傷になりますよね。
生き延びれたことは、きっと本当に嬉しかったことだと思います。
それでも経験したこと、見たもの聞いたもの全てが考えられないほどの残虐さで、
きっと悪夢にうなされる日も少なくなかったのではないかと思います。
まだご存命の方が多くいる、それ位最近の事なんです。
日本じゃ考えられないですよね。戦争なんて遠い過去のようです。
平和ボケとはよく言ったものですが、
決してそれが普通ではないこと、どれだけ幸せなことか改めて気づかなくてはいけないと思います。
マイダネクのすぐ隣は市街地。
写真じゃ分かりませんが、強風に吹かれながら、
「うぅ~寒い~~」と言いながら、ついに一番奥のモニュメントに向かいます。
マイダネクの一番奥にある霊廟です。
直径35m,高さ14.5mのドーム型になっています。
丘全体は、コンクリートが注入されており、御影石が並んでいます。
この言葉「„Los nasz dla was przestrogą”」は、「私たちからの警告です」と訳されることが多いですが、
Losにはポーランド語で「運命・宿命」という意味があります。
単に「警告です」と書いてあるのではなく、亡くなった方々の宿命として、こうなりますよ、
ということを如実に現し、後世への記憶として、残している強いメッセージなのです。
ポーランドでお線香代わりのキャンドルがおいてありました。
本当にこれらは遺灰なのかな?と少し疑ってしまいましたが
きっと不純物は混じっているにせよ(吹きさらしですしね)
「きっと実際はこんなもん(の量)じゃないですよね」と話しながら見ていました。
この暴風の中でも風に乗っていかないのが不思議でした。
3本の柱で支えられているドームの屋根。
厚みもしっかりあってかなり重そうですが、
そんな下を歩いていて「いきなりつぶれたらどうしよう」なんて少し考えてしまいました。
ここから、最初に見た石碑まで1本道でつながっています。
実に端から端まで1,300m。
ちなみに上の写真の2つ目の監視塔辺りを右に入ったところに公衆トイレがありました。
霊廟の少し先には一般墓地もありました。
マイダネクとは関係ないと思いますが、ポーランドの墓地も見る価値があるほど
どのお墓も形が美しく全く怖い雰囲気がありませんので、
時間がある方は是非見に行ってみて下さい。
霊廟をぐるっと1週して、マイダネクをあとにしました。
アウシュビッツの方は行った事がないので比べられませんが、
マイダネクは全てが完全に残っているという場所です。
そしてそんなに観光地化していないので、アトラクション的ではありません。
オーバーリアクションなガイドもいません。(ガイド頼まなくても入れます。)
興味がある方はクラクフだけでなく、是非ルブリンにも足を運んでみて下さい。
マイダネクへの行き方はこちらからどうぞ。
旧市街分まで書こうと思ったのですが、
長くなってしまったのでマイダネク編が2つになってしまいました!
旧市街・ルブリン城は次の記事で書きます!
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